2011年3月15日 星期二

災難中可歌可泣的事蹟


 





俗話說,患難見真情一點也不假。甚至,患難時可以看到社會的素質,民族的本質。


從地震,到海嘯,然後核電事故。一起又一起的連環災難,也給日本製造了一件又一件可歌可泣的事情。


當核電站事故發生時,有誰會想像事發現場(發生事故的核電站)是怎樣的情景?


以下是讀賣新聞的一篇報導。


請想像一下,經過地震,海嘯後,800名電廠員工依然堅守崗位,在黑暗中不斷嘗試灌水的景象。


當壓力過大,無奈要開閥放氣時,也有人勇敢去做。雖然最終還是被感染送院。


大家都在努力,包括不同行業的人,也包括政府以及首相。


對了,他們的首相不用去踩海嘯後的爛泥,但已經足夠。


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被曝の恐怖、余震…真っ暗な建屋で決死の作業


読売新聞 3月15日(火)20時1分配信


 高濃度の放射性物質の放出が続く福島第一原発。


 放射能汚染の恐怖と闘いながら、決死の作業が続く。15日朝に大きな爆発が起きた2号機。東電や協力企業の作業員ら800人が水の注入作業を行っていたが、爆発に伴い、「必要最小限」という50人を残し、750人が一時、現場から離れた。被曝(ひばく)を避けるため、放射線量が高くなると作業を中断しなければならない。15日午前、隣接する3号機付近で観測された400ミリ・シーベルトの環境下で作業できる時間は15分が限度。津波による被害で、停電も続く。照明がつかないため真っ暗な建屋内で、作業効率はあがらない。余震が続く中、津波警報で作業の中断を余儀なくされることもある。400ミリ・シーベルトを記録したのは、作業員が携帯する放射線監視装置だった。


 12日午後、高圧になった1号機の格納容器内の蒸気を逃がすための弁が開放された。格納容器に亀裂が入る最悪の事態はまぬがれた。その弁を開ける作業にあたった男性は、100ミリ・シーベルト以上の放射線を浴び、吐き気やだるさを訴えて病院へ搬送された。


 もともと、この作業では、大量の放射線を浴びる危険があった。このため、1号機の構造に詳しいベテラン社員である当直長が作業を担当。「タイベック」と呼ばれる特殊な全身つなぎ服とマスクを身につけ、手早く弁を開けたが、10分超で一般人が1年に浴びてもいい放射線量の100倍にあたる放射線を浴びた。


 経済産業省原子力安全・保安院によると、同原発で注水作業に当たる東電職員らは約70人。緊急時対策室でポンプなどを制御しつつ交代しながら格納容器付近の現場で活動している。


 中央制御室で監視できる計器も、被災後、故障し計測不能なものがある。遠隔制御も不能で、原子炉冷却のために弁を開く作業も手作業するしかない。福島第一原発は1971年に1号機が稼働した古い原発で、通路などが狭く作業しにくいことも足を引っ張る。


 注水が進めば原子炉内の圧力が上昇し、炉の崩壊の危険性が高まるため、弁を開いてガスを外部に放出しながら進めなければならない。ガスは放射性物質を含むため、放出自体は最小限に抑えなければならない。東電の担当者は「バランスをみながらぎりぎりの選択の連続だ」とため息をつく。 


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